kanjuseitosyakaitojounetsu’s diary

コミュニケーション(意思疎通)、マーケティング、広告、メディアのブログです。経営分析、投資分析、ビジネススキルの目線もあります。これらの観点から様々な事柄を分析します。

なぜ、日本のスポーツ報道は、物語ばかりを語るのか。竹田圭吾氏は語る。甲子園のマイナス面を朝日新聞は報じない。これは、日本社会をあらわしている。

今回は、コミュニケーション、マスコミの話をしよう。

とりあげるマスコミは、朝日新聞毎日新聞NHKだ。そして、テーマは甲子園と報道だ。さらに、この事象からサラリーマンは何を学びいかせるのか、考えたい。

 

伝えたいこと

日本のマスコミのスポーツ報道は、変だ。スポーツのルールや戦術の解説はしない。

そのかわりに選手の個人的な物語に焦点をあてる。やれ感動物語を報道する。

そのようになる背景には、日本人の多くが望んでいることであるということだ。

その日本人の社会構造をしっていると、プレゼンテーションでは、物語を語ると日本人には伝わる。

 

本文

甲子園のマイナス面を朝日新聞毎日新聞NHKは報じない。

この事象を分析しよう。

結論から言おう。

スポーツビジネスは、メディアが行っているからだ。そしてそれは、日本社会の人々に受け入れられている。

そして、この構図は、もっと一般化できる。スポーツビジネスにおける、ブームと文化を一般化すると、バブルとブランドにたとえられる。

 

スポーツビジネスにおいて、ブームと文化が対比して語られる。ここで問われているのは、日本社会の視聴者の状況、日本社会の現状だ。この現状を分析しよう。

 

分析の効果 

短期的な効果 スポーツにおけるブームと文化がある。ブームが文化にならないのは、メディアと人々によってである。

長期的な効果 スポーツにおけるブームと文化の関係は、一般化すると、バブルとブランドという形になる。この構図は、日本でのビジネスにおいて様々な形で現れる。これを理解すれば、ビジネスや社会分析に役立つ。

 

 本文

 ジャーナリスト竹田圭吾氏の分析がすばらしい。

  

toyokeizai.net

竹田氏の記事を要約する。

まず、日本のスポーツジャーナリズムの国際比較で、日本のスポーツ報道のいびつさを説明する。そして、その原因がスポーツ報道がメディアによるビジネスとの関係性を指摘する。

そして、その関係は、社会にとって有益な面がある。しかし、「 高校野球の投手が夏の甲子園大会で酷使されていることを『朝日新聞』が問題視して大々的なキャンペーンを張ることもない。」のである。

その点で深刻なのは、記者がインサイダー化されてしまうことだ。高校野球の特待生問題も、バスケットボール界の内紛も、大相撲の「リンチ死亡疑惑」も、柔道界の暴力・パワハラ問題も、私の知るかぎり、それぞれの分野を日常的に取材していたマスコミ関係者は発覚する以前からある程度まで気づいていたし、危機意識をもっている記者も少なくなかった。しかしコンテンツの価値を守ることがメディア組織として優先されれば、個々の記者としては動きようがない。

過度の商業主義に鈍感になりがちという問題もある。1998年の長野冬季オリンピッククロスカントリースキーで、アフリカのケニアから出場し最下位ながら完走した選手を、優勝したノルウェーの選手がゴール地点で出迎えて称えるという「感動のドラマ」があった。しかしこのケニアの選手は、アメリカの大手スポーツメーカーが丸抱えでトレーニング費用を出しており、黒人が白銀の世界に挑むというドラマティックな絵の中でそのスポンサーのロゴがいっそう目立つという演出意図が大会当初から指摘されていた。

日本の記者はサラリーマンなのだ。日本の記者は、視聴者に従うと、ジャーナリズムを失う。

視聴率をねらってばかりだとそもそもの報道の意味がなくなる。報道の意味がなくなるとは、社会にとって有益な情報を公開しなくなるということだ。

「大相撲の「リンチ死亡疑惑」も、柔道界の暴力・パワハラ問題」は、視聴者が望んだからといって、でてくるものではない。しかし、社会に明らかに役に立つ。その社会的意味を大切にすべきだ。この深く切り込んだことは、ブームと文化において、非常に貢献する。

 

サッカーの女子ワールドカップで準優勝した日本代表のキャプテン、宮間あや選手が「(なでしこジャパンへの注目が)ブームではなく文化になっていけるように」と語ったことが話題になった。帰国後の会見で「どうすれば文化になると思うか」と問われた彼女は、2011年のW杯優勝後も国内リーグの観客数は減ってしまっていること、大きな大会ごとに注目度は高まるが、結果を出さないとファンやマスコミがまたすぐ離れてしまうという不安を常に抱えていることを説明し、そうした不安がなくなったときに文化になったと言えるのでは、と述べた。

ブームではなく文化になるとは、まさにスポーツとファンの循環が定着することであり、宮間選手の問題提起は「そのためにメディアは何ができるのか」という問いかけであると受け止めるべきだろう。

 

文化になるためには、深い議論が必要だ。深く、人生に切り込んだほかとの明確な違いが存在し、その「何か」の存在によって、社会の見方がかわることすらある。文化とは、外界認識の方法である。

例を出そう。年寄りを敬うことが文化だとすれば、そこには、年寄りをたいせつにすることに価値を見出しているという認識が存在するのだ。年寄りを敬うという価値がなければ、年寄りを敬う一般的な活動、文化は存在しない。もちろん、ただの習慣での活動もある。

 

メディアの適切な、社会にとって有益な報道は、文化に貢献する。日本には、メディアは文化にとって役に立ってないと言うことがこの記事の主張だ。その原点は、深い議論の価値を、一般の視聴者も、作り手も認識していないことだ。

 

まとめ

日本の新聞記者はサラリーマンだ。そのため、上司のニーズ、もっと言えば、社会のニーズ、正確に言えば日本人のニーズ、それも短期的かつ感情的なニーズにこたえる記事を書く。

 

一般化

ここで、ブームと文化を一般化しよう。ブームは、一過性の基礎的状況からのずれ、文化は、はっきりとした違いであり、外界認識の違いとしよう。基礎的状況からのずれは、そのままバブルだ。はっきりとした違いとは、ブランドのことだ。日本社会の構図、深い文脈に対する価値を見出す人々がいないことは、常に成り立つ。

つまり、日本では、常日頃バブルがおこるし、起こってきた。また、ブランドとなる商品やサービスは少ない。ビジネスは細分化されているので、限られたセグメントでは、ブランドとなっている商品もある。しかし、日本でのブランドは、ルイビトンがブランドである、といった少し違った形で認識され、ブランドは無形資産のこととしったかぶりする人も多い。

このバブルとブランドについての知識と理解は、日本社会をいきぬくサラリーマンにとって大切な概念だ。

最近書いた、バブルとブランドは、ワタミについてだ。

 

kanjuseitosyakaitojounetsu.hatenablog.com

 

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サラリーマンはどうすればいいのか。 

 社会のニーズがお分かりだろう。

社会の多くの人々が求めるものは、感動物語である。短期的かつ、感情的な物語だ。

中身は、なんでもいい、スポーツの戦術やチームの構造といった頭を使うことには興味がないのだ。そのような人たちに、話を伝えなければならない。

つまり、プレゼンテーションは、物語を用いて、話すのだ。

ストーリーと経営戦略とかいう本もあったな。